センチュリーシネマで「毛皮のヴィーナス」を観る。今観ているものは現実なのか、虚構なのか。どちらが支配しているのか。状況やパワーバランスがめまぐるしく変わり、観ている頭をシェイクする。

映画『毛皮のヴィーナス』公式サイト

高慢で自信に満ちあふれている演出家トマ(マチュー・アマルリック)は、あるオーディションで無名の女優ワンダ(エマニュエル・セニエ)と出会う。品位を全く感じさせない彼女の言動や容姿に辟易(へきえき)するトマだったが、その印象とは裏腹に役を深く理解した上にセリフも全て頭にたたき込んでいることに感嘆する。ワンダを低く見ていたものの、オーディションを続けるうちに彼女の魅力に溺れていくトマ。やがて、その関係は逆転。トマはワンダに支配されていくことに、これまで感じたことのない異様な陶酔を覚えてしまう。

引用元:映画『毛皮のヴィーナス』 – シネマトゥデイ

監督はロマン・ポランスキー。1933年生まれの81歳! ボクが観たことあるのは「おとなのけんか」。登場人物のパワーバランスがめまぐるしく変化する、おもしろい作品でした。

この「毛皮のヴィーナス」に登場する人物は2人。演出家のトマと、女優のワンダ。この2人が代わる代わる主導権を取っていく。さらに、オーディションなのか、そうでないのか、微妙な境界線の上を歩いているような展開は、観ていて頭の中がふわぁっとしてくる。

「マゾヒズム」という言葉になっている、ザッヘル=マゾッホの「毛皮を着たヴィーナス」を元にした舞台のオーディションという設定でストーリーは進む。そこに投影されているのは、トマ自身の欲望だったんだろうか。そして、ワンダの魅力に堕ちていくトマ。

マゾについて、ではあったけど、感じたのは男の征服欲。さらに、それは今の時代に合わないものであると感じた。トマはマゾッホの時代の封建的なものに心を引かれていたのかもしれない。

そして、ワンダは今を生きる自由な女性。トマの心を見透かして「今はそんな時代じゃないんだよ!」と、彼の理性を崩壊させるような仕掛けをしていく。21世紀のマゾヒズムの提示をしていたのかもしれないな、ラストに向けて。

本来、SMの世界ってお互いに愛がないとできないものだって聞いたことがある。支配する、支配されるっていうものじゃないんだってね。ボクはよく分からないけど、お笑いのツッコミは愛がないとできないっていうのと同じかな、って解釈をしてます。

この作品は、物語の中での現実と虚構、めまぐるしく変わる男と女のパワーバランス、マゾについての旧時代と新時代の解釈の違いといったものが常に変化しているから、情報量は画面に映し出されているものの数倍ある感じ。ボクの頭の中はずーっとグルグルしてました。

しかし、マゾの世界か…。ボクには分からないな。でも、支配するとか、されるとかって、人間が根源的に持っているものなのかもしれない。その能力を誰かに開花させられるかも。「そういう人に限って、コロッといっちゃうのよ!」という、誰かの声が聞こえてきそうだ。というか、ボクはいったい誰の声が聞こえているのだ。