伏見ミリオン座で「セールスマン」を観る。誰でも持っている人間の二面性を感じた。

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映画『セールスマン』公式サイト

共に小さな劇団に所属する夫婦(シャハブ・ホセイニ、タラネ・アリドゥスティ)は、ちょうど劇作家アーサー・ミラーの戯曲「セールスマンの死」の舞台に出演していた。教師として教壇にも立つ夫が家を空けた隙に、転居したばかりの家で妻が何者かに乱暴されてしまう。その日を境に二人の生活は一変し……。

引用元:映画『セールスマン』 – シネマトゥデイ

プライベートが仕事に影響すること、あるよね

事件は「うっかり」から始まる。いくらなんでも、それはちょっと無防備じゃない? と思うような。

その事件を表沙汰にはしないようにする。そして、周りには「なんかおかしいよね」という空気が漂う。

ここまで深刻なものでなくても、プライベートのトラブルが仕事や学校に影響出ること、あるよね。中学生や高校生なら、恋愛ごと、とか。成績が急に下がったり、表情がなんとなく暗かったり。

プロ、と呼ばれる人たちなら、そういうトラブルを抱えていても一定のパフォーマンスを発揮しなければならない。中には、プロとしてのパフォーマンスを発揮することに重きを置いて、プライベートを犠牲にしている人もいるのかも。

もうひとつ、ラストまで観た後に残る、もやもやーっとした気持ち。ああいう結果になっても当然だ、というものと、そこまで行かなくてもいいんじゃないか、というものが混ざる。この気持ちは舞台に向かう夫婦が見せる表情と同じだ。

社会での自分と、本当の自分。みんなその間で揺れ動く

なんか、人間のふたつの面、を観た気がする。社会でそれぞれの役割を果たしている仮面の下の、素の自分、とも言うかな。私生活のゴタゴタを隠して教壇に立つ姿もそうだし、本当はひどい目に合わせたいのに、社会的な役割を果たしている姿を見たら、それができなくなったりする姿、とか。

多かれ少なかれ、このギャップに悩みながら生きていくのが人間なんだろうな。できるだけギャップのないように生きていきたいけど、社会というものがある以上、完全な一致はないのかもしれない。