109シネマズ名古屋で「舞妓はレディ」を観る。やられた…。単なる少女の成長物語かと思ってた。ぶっ飛んだミュージカルシネマじゃない。よーく観ると精巧に作られている。「ふざけてる」の先を観ようとすると、いろんな発見がありました。

周防正行監督最新作 映画『舞妓はレディ』公式サイト

古都・京都。お茶屋・万寿楽にある夜、絶対に舞妓になりたいと少女・春子(上白石萌音)が押し掛けてくる。春子は必死で頼み込むが、誰も相手にしようとしない。ところが偶然その様子を目にした言語学者の「センセ」こと京野(長谷川博己)が、鹿児島弁と津軽弁が混ざった彼女に関心を寄せたことから、晴れて万寿楽の仕込み(見習い)になる春子だったが……。

引用元:映画『舞妓はレディ』 – シネマトゥデイ

予告編にもきれいにだまされた。少女の成長物語だと印象づける操作をしているよね。だから本編を観て「そういうことなのかー!」って思うことがいくつもありました。春子が泣くところなんだけど。

春子が泣くところにもちゃんと意味があるし、その前に春子が陥ったことも、物語を最後まで引っ張るための意味がある。伝えたくても伝えられないからね、あれじゃ。

ミュージカル調にしたのは、本物の舞妓を見せることができないからだと思いました。だって、時代劇すらもう作られない時代ですよ。殺陣とか刀の持ち方とかは、一朝一夕には身につくものではないからね。だから、この作品を作るにあたっては本気でぶつかっていくのではなく、虚構の色を濃くしたんだよね。

でも、虚構の色が濃くなればなるほど演技や細部が本物でなければならない。そこがリアリティを担保することになるから。こちらが感動するパフォーマンスをするし、稽古してうまくなったことを見せるためには「下手に演じる」ということもしている。

下手に演じるなんて、難しいですよ。何回も踊っているとか、着物を何度も着ていると板につくじゃないですか。それをあえて下手に見せるなんて、演技の技術がなければできないよね。

上白石萌音さんはどれだけ言葉を覚えたんだろう。鹿児島弁、敦賀弁、それに京ことば。しかも、徐々に京ことばを身につけていく設定だから、本来の京ことばのアクセントやイントネーションではない言い回しもしなければならない。ここにも演じる人の本気度を感じました。

伝統を守っていくためには、どこかで新しいものを採り入れていかないといけない。同じものをずっと守っているだけだと、いつか行き詰まる。伝統の中にどれだけ革新を入れていくかのさじ加減をしなから根づいているんだね。あ、だからこの作品もあえてミュージカルの手法を採り入れたのか! あえてミュージカルを入れて、新しい風を送り込んでいるのか!