109シネマズ名古屋で「エンダーのゲーム」を観る。父親代わり、母親代わりの上司に見守られながら、自分の運命を引き受ける少年の成長物語。その時代を通った大人は懐かしくなり、少年や少女はワクワクしながらのめり込んでいく作品。
強大な軍事力を持つ昆虫型生命体、フォーミックとの宇宙戦争を続けている人類。その第2次侵攻に備えるべく、世界中から優れた少年兵士たちが防衛軍ベースキャンプのバトルスクールへと集められ、宇宙で戦う技術と知識をたたき込まれていた。そんな中、戦いを終わらせる特殊な能力を秘めているとして少年エンダー(エイサ・バターフィールド)もベースキャンプに送られる。生命を持つ者同士が戦争で殺し合うことに強い疑問を抱きながらも戦士の才覚を発揮し、少年戦士の指揮官となるエンダーだった。
徐々に居場所を確立していくエンダー
誰でも、子どもの頃に「放り込まれる」経験があるよね。ボクは幼稚園に行くことが「放り込まれる」経験を最初に味わったできごとです。誰の助けも借りず自分の身ひとつで初めて他人と接することは、子どもにとっては大きなストレス。初めての登園日、不安になってバスの中で泣いたね。
幼稚園では、まずは先生という接点ができ、次に友達という接点ができた。そして、集団の中での自分の立ち位置がだんだんできていきました。その頃は毎日が冒険だったんだろうなあ。今振り返ったらたいしたことじゃないんだけど。
エンダーも、バトルスクールでの生活を通して自分が何者かを確認し、やがて自分がすべきことを見つける。そんな能力があるんだったら最初からリーダーシップを発揮していけばいいのに、と思うんだけど、それはできない。恥ずかしいだろうし、すでに出来上がっている集団生活には、上下関係のような、自分の思い通りにならない理不尽さのようなものもある。
悩みながら、ぶつかりながら、他人との関係を確認していき、エンダーは成長した。自分の足で立ち、進んでいくことができるようになった。「エンダー、立派になって…」という親のような気持ちで観たボクは、もうすっかり少年を見守る立場な年齢だ。
これはゲームなのか…?
そして、バトルスクールで徹底的に繰り返される、シミュレーションという「ゲーム」。ここまで繰り返されると、それが日常になってしまう。その感覚を持ってクライマックスを観ると、現実との区別がつかなくなる錯覚が起こった。人生はゲームだ、ということを暗示しているのかなあ。
原作を読むともっと理解が深まる
この作品は、1985年に出版されたSF小説の実写化です。この小説を読んでおくと、映画の中で見落としがちになる部分が分かりやすくなります。ボクは相変わらず「何も入れずに作品を観る」スタンスを取っているんだけど、読んでおくのもよかったかも。
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