太平洋戦争での情報の重要性が、こんなに軽んじられていたとは!
辻田真佐憲さんの著書「大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争 (幻冬舎新書)」を読んで、大本営発表の不正確さがどうやって生まれたのかに驚いた。そして、そういうことって、今でも起こる可能性はあるよなあと思った。
大本営発表って、そんなに雑だったのか!
敵の機体をどれだけ撃墜したか、なんて、その後の作戦を立てるのに大事な要素になってくると思うんだけど、それがきちんと把握できていなかったなんて。そりゃ、当時は鮮明なレーダーなんてなかっただろうけど、それを差し引いても、雑な扱いだ。
カウントが雑すぎて、戦争の後期には計算が合わなくなってきている。相手の戦力が把握できないのなら、負けちゃうよね…。
報道では、一次情報にあたることを求められる。でも、その一次情報が正確ではなかったんだよね、太平洋戦争での大本営発表って。相手へのダメージは水増しして、自分たちの被害は少なめにしてたんだから。
ボクの感覚がマヒした、原発事故での報道
ただ、一次情報を疑うってのは、情報を受け取る末端にいるとなかなかできない。ボクもその感覚がマヒしちゃってました。原発事故の時に。
今になれば、あの時にメルトダウンしていたとなっているけど、当時はその言葉を使っていなかったんだよね、確か。いろんな言葉を組み立てて、そうではないと言っていた。そんな言葉の論理武装に、ボクの感覚はマヒしてた。
メルトダウンと発表したインパクトの大きさを考慮しちゃったのかな。でも、それは情報を発信する側は考えちゃいけないんだよね。本来は起こっていることを正確に発表することが役目。
配慮の結果、情報が「捏造」になる
そうとは分かっていても、いろんな所に配慮してると思うんだ、実は。太平洋戦争の大本営発表も、あからさまに「この事実を報道するな」って圧力がかかっているというよりも、陸軍や海軍の意向を聞いてたら、変な文章になっちゃったってことが多かった。
でも、そんな配慮のかたまりのような文章は、どこか気持ち悪い。スッと理解できない。そんな違和感に気づいて検証する所がなければ、同じことは何度でも起こる。
情報の公開と言われるけど、全てを公開したって、その情報が間違っていたら意味がない。必要なのは、公開されている一連の情報の矛盾を突けるかどうかなんだろう。
2018年5月16日 at 6:49 PM
いろいろ配慮したら情報がいびつになってしまった、というのは東日本大震災の大川小の津波訴訟で思いました。
NHKも河北新報も週刊ダイヤモンドもホントは何が起こったか知ってるんだなと思います。もしかしたら遺族の方々も知ってるのかも。
でも、最初の言い出しっぺにはなれない。
苦い言葉を自分以外の誰かに言わせようとせめぎ合っているように見えます。