TOHOシネマズ名古屋ベイシティで「スリー・ビルボード」を観る。さっき観ていたものと、今観ているものが、同じなのに、違う。
ミズーリ州の田舎町。7か月ほど前に娘を殺されたミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)は、犯人を逮捕できない警察に苛立ち、警察を批判する3枚の広告看板を設置する。彼女は、警察署長(ウディ・ハレルソン)を尊敬する彼の部下や町の人々に脅されても、決して屈しなかった。やがて事態は思わぬ方へ動き始め……。
簡単に言ってしまえば、表と裏。でも、それが、重い
ひとりの人物に対して、これほどまで印象が変わる作品はあるだろうか。人間の表と裏、善と悪の二面性が現れていると感じた。
「娘を殺された! 警察は何をやってるんだ!」ということから広告看板を設置する。これだけを聞けば、どっちに味方したくなるか。ほとんどの人は同じ側につくだろう。「そうだ! 警察の職務怠慢だ!」と。
警察の描かれ方をみても、そういう気持ちになっていく。でも、ストーリーが進むに連れて感じ方が変わってくる。白かったものが黒く、逆に黒かったものが白くみえるように。
そうみえてくるのはみんな、きっかけとなる出来事があってから。今まで抱いてきた印象を覆すようなもので、まるで「この人にもこういうことがあって……」とか「この人にはこれでいい所もあって……」と、言い訳をみているかのようだ。
でも、それは言い訳ではなく、当たり前のことだった。どんな人だって、周りからよくみられる面もあり、そうみられない面もある。この描き方はそれを極端にしているだけだ。
例えば、すごく嫌な人がいる。仕事で何度も、嫌な気分になってくる。ものすごく嫌いなんだけど「でも、この人にも親がいる。親に愛されて育ったんだ」と考えた瞬間、ものすごく嫌だった気持ちの何パーセントが、嫌だけど、まあ、しょうがないか、というような気持ちに変わる。違う面を想像して、今までの気持ちが変わること、あるよね。
ボクはおかげさまで嫌な人は周りにいないけれど、初対面で緊張している時に、この想像をして気持ちを落ち着かせること、あります。そうすると、仕事を背負った相手、という感じじゃなくて、今はそういう仮面をかぶっているにすぎないんだ、って気持ちになるんですよね。
ラストまで行っても揺れている人間
この作品では、その人物の背景を知れば知るほど、印象が変わる。人間を一方からだけでみることがいかに危険かということが分かる。
ラストシーンで「おいおい、気持ちは分からないでもないけど、それじゃ終わらないだろ」と思ってたんだけど、最後のセリフに余白を残してくれていた。どっちにみえるか、なんていうのはその時の状況にも大きく左右される。
人間もそうだし、ものごともそう。一方的にみて判断を下すのは簡単だけど、違うところからみたら別の印象を持つ。だから、いろんな角度からみることが大切なんだけど、そんなことしたらものごとについて何も言えなくなる。
でも、簡単に言えなくっていいんじゃないですか。ものごとって、本当はそういうものなんだろうし。そういう多面性を承知して発言している人の言葉には、そうでないものに比べて血が通っている感じがする。よく聞いて、自分でしっかり感じないと、大事なものを見落とすかもしれないな。
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