センチュリーシネマで「タリーと私の秘密の時間」を観る。こんなはずじゃなかった、と思うこともあるけど、それでも手に入れられたものがある。なかなか、それには気づかない。
マーロ(シャーリーズ・セロン)は大きなお腹を抱え、娘サラ(リア・フランクランド)と息子ジョナ(アッシャー・マイルズ・フォーリカ)の世話に追われていた。聞き分けのいいサラと違い、落ち着きがないジョナのおかげでマーロは何度も小学校から呼び出される。夫ドリュー(ロン・リヴィングストン)は優しいが、家のことはマーロ一人に任されていた。
シャーリーズ・セロンの体型が、マーロの半生を語っている
この作品のために体型を変えたシャーリーズ・セロン。ボディラインが崩れてしまっても、美しい。それがまた「昔は輝いていたけど、今は家庭に育児に疲れ切っている」って感じにみえるんだよなあ。
シャーリーズ・セロンが演じるマーロは、今の自分でない、理想の自分、あるいは過去の自分を追いかけている。そこに現れたマッケンジー・デイヴィスが演じるタリー。彼女によって、今の自分をきちんとみることができるようになっていく。
いつの間にか時間が流れ、社会のステージが変わる
気づけば、時間は流れているんだよね。いつまでも若いと思っているのに、年齢を振り返ったら「え、もうこんなに?」ってこと、いくらでもでてきた。
ボクは毎年、高校野球を実況してますが、選手名簿の生年月日をみたら「わー、2000年生まれか……」って思うこともあったし、もう仕事始めてたよ、彼らが生まれた年には、って思うこともある。
あるいは、ウェブから申し込む時の生年月日の入力で、生まれ年の一覧をプルダウンメニューから選ぶ時の、スクロール幅の長さ。どんどん長くなってきた。前はマイスホイールをくるっと回すだけだったのに、今はグルグル回している。
社会のステージが変わった時に、戸惑う。結婚して子供が生まれたときには、それまでなかった「お父さん」「お母さん」の役割が強制的に増える。
もちろん、それは素晴らしいことだ。でもね、なかなか受け入れられないものですよね。ある意味「老いを認める」ってことだもの。
そんな現実を、この作品でみせつけられる。本当の自分はこういうものじゃないはずなのに、社会から与えられる役割はそうではなくなった。ちょっと絶望感、あるよね。
絶望に感じることはない。それを受け入れてくれる、他人という存在
でも、本当は絶望に感じることなんてまったくない。気づかせてくれるのは自分ではなく、他人だ。マーロの周りにいた、タリーやドリュー、クレイグたちだ。
自分が背負っているものって、もっと簡単にいろんな人にパスをしていってもいいんだよね。それができない人もいる。どっちかというと、ボクもそう。だから、マーロの気持ち、分かる。頼っちゃダメだ、って思ってしまう。
タリーのように、今の自分の立ち位置を気づかせてくれる人がいると、安心だ。いや、タリーを演じたマッケンジー・デイヴィスがいてくれるといいなあと思った。なんでも受け入れてくれそうだ。
マッケンジー・デイヴィスの演技も、素敵だった
ホント、観ている人をそんな気持ちにさせるマッケンジー・デイヴィスの演技もよかったんだよね。なんだろね、タリーが持っている、自分にもいろいろあるんだけど、それがあるから広い心を持って他人と接することができる、って雰囲気は。
人の暖かさって、どういうところから生まれてくるかってことも考えさせられたな。
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